2005年12月15日

鉄道営業法第33条

※当ブログで3回にわたって掲載した「東武鉄道運転士解雇で考えた事()」の関連記事です。

 東武鉄道ですが、今度は東上線で車掌サンがやっちゃったみたいです。

降車側と反対側ドア開く…東上線成増駅(読売新聞・12日)

 案内放送の誤りを訂正するのに気を取られて、「無意識のうちに(ホームと)反対側のドアを開けるボタンを押してしま」ったそうです。「ミスに気づかないままホーム側のドアも開け」てしまったそうですから、本当に無意識だったのかもしれませんけど、車掌が操作するドアの開閉スイッチって、「無意識のうちに」操作出来るほど小っちゃい物ではないんですけどね…。
 とにかく、「約600人の乗客にけがはなかった」のは幸いでした。ラッシュの時間帯だったら洒落にならなかったかもしれません。過失なので、この車掌は懲戒解雇にはならないとは思いますが、少なくとも当分は乗務から外されるでしょうね…。

 なお、一応付け加えておきますが、車掌がホームと反対側のドアを開ける事自体は、決してあり得ない話ではありません。例えば始発駅で乗客を乗せる前に、点検のためにホームと反対側のドアを開閉させる事はよくあります。また、車体側面の行先表示を昔ながらの表示板で行っている列車では、ドアを開けないと表示板の交換作業が出来ない場合があるため、乗客が乗ったままでも車内放送などで警告した上で、反対側のドアを開ける事があります。
 数年前、ある始発駅で一番列車を待っていたら、電車(始発駅なので車内に客はいません)が入ってくるなりホームと反対側のドアが開いたのを見た おばちゃんグループが、「あら〜、こんなに朝早いから車掌さんも間違っちゃったのね〜」とか言ってワイワイ騒いでたんですが、別にそういう訳じゃありませんので…(汗)。

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 さて、東武野田線の運転士解雇について、面白い新聞記事を見付けたので紹介しておきます。

東武鉄道「運転室にわが子」解雇問題 道徳教材に正解!?あり(産経新聞・5日)

 小学5年レベルの話だったという事で…。

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 ところで、東武鉄道の運転士処分を支持する意見の中には、「東武の運転室の入口には、部外者が乗務員室に立ち入ると危険であり法律で罰せられると、はっきり書いてあるではないか」というものが沢山見受けられました。
 普段から東武鉄道に乗っている人であれば嫌でも目に入る、こんな警告表示のステッカーです。

東武鉄道の警告表示
「乗務員室立入り禁止
乗務員室にはたくさんの機器があってこれにふれると思わぬ事故が発生し危険です
立入ると鉄道営業法第33条によって罰せられます」

 東武の主力である8000系や10000系と呼ばれる電車などでは、客室と乗務員室(運転室・車掌室)を隔てる扉の上に、この仰々しいステッカーが貼ってあります。(因みに、今回の一件があった野田線を走る電車は全て「8000系」です。従って、野田線の電車には全てこれが貼ってあります。)
 で、これに対して「(運転室に入り込んだ)3歳児には、こんな警告文は理解出来ない」とかいう反論をする人が現れて、そこでまた不毛の議論が始まってしまったりしていたのですが、それはともかく…。
 この警告文を見ると、運転室や車掌室に関係者以外が立ち入ったら、列車の安全運行を妨害したとして重〜い罪に問われる事が法律に定められている様に読み取れますよね…というか、私はそう思っていたのですが、この「鉄道営業法第33条」、調べてみたら、こんな条文でした。


旅客左ノ所為ヲ為シタルトキハ三十円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス
一・二(略)
三  列車中旅客乗用ニ供セサル箇所ニ乗リタルトキ
(※罰金等臨時措置法第1条第1項により、この条文中の「三十円」は「二万円」と読み替えて解釈します。)


 意外にも、運転室に部外者が立ち入ってはいけないと直截(ちょくせつ)的に規定されている訳ではないのです。それも最高刑が罰金2万円という微罪なのでした。
 漢字・片仮名混じりの文語調の条文からもお分かりの通り、鉄道営業法は明治33年に施行された古い法律です。まだ蒸気機関車の時代でしたから、現在の様に客室と運転室が扉1枚で仕切られただけの列車はありませんでした。
 「列車中旅客乗用ニ供セサル箇所」という表現から考えて、恐らく立法当時は、荷物室や郵便車に乗り込んだり(昭和50年代位までは、荷物車や郵便車を連結した旅客列車も、さほど珍しくなかった様です)、天井や連結部分に乗ったりする不正行為を想定していたのではないでしょうか。勿論、機関車の運転台に乗車しても鉄道営業法第33条違反で罰せられたでしょうが、狭い所に何人もの機関士が乗務している運転台に不正乗車するのは、屋根によじ登る以上に困難ではないかという気がします。

 電車や気動車の時代になっても、運転台への立ち入りを殊更に禁じる法律が作られなかったのは、立法や行政が怠慢だったからか、改めて宣言するまでもない事だからなのかは判断しかねますが、少なくとも、営業運転中の運転室に関係者以外が入る込む事を問題なしとする見解の表れでない事は、言うまでもないでしょう。


2005年12月12日

東武だから騒がれた。JRなら騒がれなかった。−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(下)

11月30日の記事「東武の『身から出た錆』−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(中)」の続きです。

 野田線の運転士を懲戒解雇した東武鉄道に対し、抗議の声が殺到している事がマスコミなどで取り上げられ話題になっていた頃、別の鉄道会社で新たな懲戒解雇の事例が明らかになっていた事に、どれだけの方が気付いていたでしょうか。

JR東日本:乗務中に写真、車掌を懲戒解雇処分−−公表せず(毎日新聞・11月16日)

 新幹線の車掌が、乗務中に個人的に撮影した写真を自身のウェブサイトで紹介していたところ、これを知った同じ会社の従業員が上層部に“通報”し、この車掌は職務専念義務違反で懲戒解雇されました。

 新幹線は普通の鉄道(在来線)とは比較にならないほど高速で走行している事から、乗務員も比較にならないほど高度の集中力や技術が要求されていると思い込んでいる方が多い様ですが、実際は逆だと聞いています。高い柵などで線路が外部と厳重に隔絶され、最先端の運行支援システムも導入されている新幹線の乗務は、むしろ在来線より楽なぐらいらしいです。
 それでも線路内に障害物が飛び込んできたりする可能性はありますから、運転士が乗務中に写真を撮っていたりしたら、さすがに大問題でしょう(JR東海で前例があるのですがね…)。しかし今回問題が発覚したのは、運転士ではなく車掌です。車掌にも勿論、列車の安全を守る責務はありますが、運転士の様に、常に集中して、どこかをじっとを凝視し続けていなければならない訳ではありません。停車駅間が長い列車では在来線でさえ、車掌が手持ち無沙汰にしていたり、寝台列車などでは乗客と雑談をしたりしている事すら、実はさほど珍しくない光景です。

 東武野田線の運転士に対する懲戒解雇は不当だとする声の中には、ぐずる子供を運転室に入れたまま列車を運転しても危なくなんかない…という意見も多く見受けられました。これが危なくないというのなら、新幹線の車掌が乗務中に写真を何枚か撮るなど何の問題もなく、その程度で懲戒解雇など言語道断という事になります。実際、JR東は、今回の事実を約8か月も隠していた理由を「列車の安全運行に問題はなかった」からだとしています。
 一方で、今回の車掌は個人的な写真撮影を3年間も続けていたといい、突発的な出来事だった東武の場合と違って常習性が認められるので、重い処分もやむを得ないという意見も見られました。しかし、それでも東武の時と同様に「乗務から外し、謹慎させる程度で良い。懲戒解雇は行き過ぎだ」という意見が沢山出てきても、おかしくないはずです。
 また、東武の時には「東武の上層部にチクった客の根性が嫌らしい」という意見も目にしました。不良中学生並みの柄が悪い発想と言うしかありませんが、それを嫌らしいと言うなら、同僚が「チクった」今回の件は、もっと嫌らしいんじゃないですか?

 「子供」という存在が関わっていた東武と、純粋に個人的な余興だったJR東の違いはありますが、東武に対するのと同じぐらいの抗議の嵐がJR東に起こってもおかしくない条件は揃っていました。なのに、そんな話を伝える報道は全く目にしません。そういえば、懲戒解雇の事実自体を伝える報道も、JR東の時は東武の時に比べ控え目だった様な気がします。
 ところがネット上を検索してみると、JR東による懲戒解雇も東武同様けしからん…とか、逆に、東武の懲戒解雇は不当だがJR東のは妥当だと考える人がいたなら、どこで線引きをしているのか…とか、ブログなどで意見を述べている人達が結構いるのです。ただ、その数は、東武の時ほどではありません。
 想像するに、JR東にもかなりの数の意見(恐らく大半は東武の時と同様の抗議)が寄せられていたのではないでしょうか。但し、その数や内容は、東武に対するほどのものではなかったのではないでしょうか。

 何故、東武の時ほど話題にならなかったのか。何故、東武の時ほどマスコミに報じられなかったのか。
 その理由を推測するのは簡単。「JR東日本だったから」です。

 JR東の広告は、テレビ・ラジオでも、新聞・雑誌でも、嫌っていうほど見ますよね。新聞に全面広告を何面も連ねる事さえありますし、テレビCMはJR東の管外でも結構流れていると聞きます。
 一方、東武鉄道の広告って、関連会社を含めても、マスメディアでは滅多に見ませんよね。たまにテレビCMがちょろっと流れたりするんですけど…。
 商業マスコミの姿勢が多少なりとも広告収入に左右される事実は、いわば“公然の秘密”です。
 また、雑誌の場合は駅売りの比率が高いため、巨大鉄道会社であるJR各社に不利な内容を含む記事は禁忌されます。尼崎の脱線事故ぐらいの規模の話になれば別ですけれど、11年前にJR東が「週刊文春」にあからさまな弾圧を加えたのを御記憶の方も、まだいらっしゃるのではないでしょうか。


 東武鉄道に対しては浮き世に付和雷同したマスコミも、その直後に起こった類似事例では、JR東に遠慮して騒がなかった。そして、東武に非難を浴びせた一部の民衆も、そんなJR東とマスコミの術中に半ば嵌(は)まってしまった。…そんな構図を見て取らずにはいられません。
 プロの集団であるマスコミが、まずしっかりしていないといけないのは勿論ですけど、日本ではマスコミの殆どが営利企業ですから、現実問題として限界もあります。
 ですから、世間というか世論が、もっとちゃんとしていなきゃいけませんね。東武とJR東に対する空気の差を目の当たりにして、そう思いました。


 繰り返しになるかもしれませんが、最後に一応、私の考えをまとめておきます。東武の懲戒解雇処分はかなり重いが、過重とまでは言えない。JR東の場合は、本来業務が疎かになっていなかったのであれば、懲戒解雇処分は過重である。これが私の見解です。

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 さて、東武(とJR東?)に続いて、今度は新京成電鉄に抗議が殺到しているらしいです。
新京成電鉄:車掌が腹痛…子会社の駅監視員が代わりに乗務(毎日新聞・8日)
「車掌代行」処分に抗議 メールなどで海外からも(共同通信・9日:リンク先は東奥日報)

 乗務中に急に腹痛がした車掌に代わって、乗務をしてしまった駅監視員。内規どころか鉄道営業法違反だそうですが、この監視員には現職ではないとはいえ、車掌の職務経験がありました。
 “車掌代行”はやっぱりまずかったかな…と思いますが、鉄道会社は乗務員の体調急変への備えをしていたのかどうかとか、車掌は体調の自己管理が出来ていたのか(乗務を離れた車掌が駆け込んだ先はトイレだったそうですから、「腹痛」といっても要するに…)とかも、気になります。
 因みに新京成電鉄は、東京ディズニーリゾートを経営するオリエンタルランドと同じく、京成電鉄の関連会社。もし新京成がオリエンタルランドの子会社だったら、マスコミや世論を上手く“操縦”出来たかもしれないのにね〜。

※後日の関連記事
(12/15)鉄道営業法第33条

2005年11月30日

東武の「身から出た錆」−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(中)

11月21日の記事「運転士の過ちは決して軽くない−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(上)」の続きです。

 前編では、懲戒解雇の理由となった運転士の行いや、その是非などに対する解釈や評価が人によってばらばらなのに加え、それらを踏まえた上で、東武鉄道が行った処分は是か否かの結論への導き方も様々であるため、一見似通った意見であっても、実は人それぞれにかなり多種多様な考えが存在している事を検証してみました。
 (…のつもりだったのですが、後で読み返してみたら、自分で読んでも論旨が今一つはっきりしない文章になってしまっていました(汗)。何しろ、ほぼ“順列組み合わせ状態”と言ってもいい位に雑多な解釈が見られたため、私の文章力では簡潔かつ理論立てされた論証がなかなか難しいです…。)
 続いて今回は、この問題に対する世間の評価に多少なりとも影響を与えたに違いない、東武鉄道にまつわる周辺事情を取り上げる事にします。


 今回の運転士の行いは責められるべきだとした上で、懲戒解雇という極端に厳しい処分は見せしめ、一罰百戒の嫌いがあり、頂けないと評したジャーナリストがいました。一つの見識だとは思いますが、これを聞いて内心「東武の場合は、一罰百戒、大いに結構」と思った東武鉄道の沿線住民も、決して少なくなかったのではないかという気がします。

 「東武鉄道の沿線住民」とは則ち、東武鉄道の従業員の態度を長い間、日常的に見てきた人達という意味です。関東に長く住んでいる方なら御存知と思いますが、東武の鉄道員の態度には昔からの“定評”がありました。
 身だしなみは乱れ、姿勢は悪く、利用客に平気でため口を利いたり、怒鳴りつけたりする。業務の都合で乗客と一緒の電車で移動する際も、立っている乗客がいても自分達が座席を占拠して決して譲らず、車内が空いていたら制服姿のままロングシートに寝転ぶ者までいる。手放し運転など安全に関わる職務怠慢の目撃談も多く(歯を磨きながら運転している運転士がいた…という話まで読んだ事があります)、更にはホームに煙草の吸い殻をポイ捨てする乗務員も…。
 今回の出来事が起きた野田線などの本線系統(浅草を起点に北関東各地へ向かう各線)はまだましな方で、東上線系統(池袋を起点に埼玉県西部へ向かう線)の駅員や乗務員は輪をかけてひどいという話も聞きますが、何れにせよ、まともな企業の従業員とは思い難い東武鉄道の現場職の態度は、「ミニ国鉄」とか「闘武鉄道労働組合」(自分達の勤務態度は棚に上げて、権利だけを強硬に主張する「東武鉄道労働組合」の自己中心的で武闘的な姿勢を揶揄した言葉)とか、「東武鉄道は乗客のためでなく乗務員のために走っている」などと評される始末で、沿線住民はすっかりうんざりし続けてきていたのです。私自身が沿線住人ですから、その事はよく分かります。

 そんな東武の鉄道員の態度も、ここ2〜3年程は、確かにかなり改善されてきました。一時、経営危機が囁(ささや)かれた事も影響したのでしょう。しかし、長年にわたって植え付けられてきた東武鉄道の従業員に対する利用者の不信は、簡単に払拭される様な程度のものではありません。
 前編でも取り上げたTBSラジオ「アクセス」に寄せられた意見だったと思いますが、懲戒解雇処分に反対する人の「スペーシア(浅草から日光などに向かう、東武鉄道の看板列車)に乗って遊びに行く気がしなくなった」という意見に対し、沿線住民だという人が「私達は日常生活で東武鉄道に乗っているのです」と反論していたのは、象徴的だと思いました。


 一方、懲戒解雇を不当と非難する少なからぬ人達は、同じ東武鉄道で今年3月に起きた踏切事故を巡る動きを思い浮かべていた様です。足立区の伊勢崎線・竹ノ塚駅構内にある手動踏切で、係員が誤って列車が通過する直前に遮断機を上げてしまい、通行人2人が列車に跳ねられて死亡した事故を御記憶の方は、まだ多い事と思います。
 私の地元・足立区で起きた出来事でもあるので、この踏切の話は別の回に改めて触れたいと思いますが、通行人からの評判も良かったこの踏切係はすぐに懲戒解雇され、業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴されたのに対し、事故が起きた踏切の問題点を知りながら放置し続けてきた竹ノ塚駅長などの管理職や本社の担当者は、東武鉄道の嘱託医が下した鬱(うつ)病との診断を盾に入院してしまい、加えて警察の捜査では東武鉄道による組織的な証拠隠滅工作の疑いも浮上しました。
 これらの不穏な動きについてマスコミからの続報がないので、その後どうなったのか私には知る術もありませんが、このままでは、与えられた環境の下で職務をこなすしかない末端の労働者が全責任を負っ被せられ、上層部はのうのうと脱げ仰せる「トカゲの尻尾切り」になってしまう事は確実です。

 複数の命を奪い、刑事事件にまで発展した踏切事故を招いた自分達の怠慢には何のけじめも付けない東武鉄道の上層部に、結果的には何も起こらなかった規則違反を犯しただけの運転士を懲戒解雇する資格があるのか。踏切事故に対する上層部の責任逃れから世間の目を逸らすために、規則違反の運転士に“見せしめ刑”を課すスタンドプレーを行う事で、東武鉄道の上層部は安全を重視していると見せかける底意があるのではないか。…運転士への処分に対する反発には、そんな反感に基づくものも多い様です。
 それは上層部が自らに甘いのであって、運転士への処分が厳しいのと厳密には違うのではないかという気もしなくはありませんが、これはこれで理屈の通った考え方である事は確かです。


 サービス業としての基本を蔑(ないがし)ろにした事で、客からの信用を自ら失ってきた東武鉄道の労働者と、今なお事実上の“根津財閥”を形成する同族企業ならではの、上層部の見苦しい馴れ合い体質。
 世間を騒がせた今回の一件ですが、運転士の懲戒解雇が正しかったにせよ間違っていたにせよ、東武鉄道の労使双方にとって“身から出た錆(さび)”でしかなかったとは言えないでしょうか。

12月12日の記事「東武だから騒がれた。JRなら騒がれなかった。−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(下)」に続く

2005年11月21日

運転士の過ちは決して軽くない−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(上)

東武鉄道:長男を運転室に、運転士解雇に「厳し過ぎる」(毎日新聞・12日)
東武運転士:解雇処分を正式決定(同紙・16日)

 既にちょっと古いニュースになってしまっていますが、今も一部では話題になっている様なので、当ブログでも触れてみたいと思います。

 東武鉄道の30代の男性運転士が今月1日、運転室に入り込んだ自分の息子(3歳)を外に出さないまま、埼玉県内の野田線の1駅区間(約4分)を運転したとして、懲戒解雇されました。これに対して東武鉄道に数多くの抗議が寄せられるなど、処分の是非が話題となりました。
 東武に寄せられた抗議の声は約2000件、一方で支持する声は100件台だったと聞いていますが、普通、懲戒解雇を支持する声をわざわざ企業に届ける人というのは、余りいないでしょう。このニュースを取り上げたTBSラジオの番組「アクセス」で意見を募ったところ、賛否の声はほぼ半々だった様です(リンク先から、バトルトーク>バックナンバー>2005年11月11日を御覧下さい)。これとて厳密な世論調査ではありませんが、恐らく世論は二分されていると思われます。
 しかし、マスメディアやネットなどを通じて飛び交う意見を見ていると、同じ賛成や反対の声であっても、その中身は余りにも様々である事に驚かされます。


 まず、3歳の我が子を運転室に入れる事が良いか悪いか。これを良いと言う人はいないだろうと思いきや、案外いるみたいです。
 昔の鉄道では、乗り物好きの子供を短い時間だけ運転室に入れて、前方の景色を見せてあげるという計らいがしばしばあったのだそうで、その経験を元に、問題はないと主張する人も多い様です。また、他社の運転士が匿名でメディアに出演し、「子供が運転室に入っただけで、事故に繋がる可能性はない」と語っている例もありました。
 しかし、報道で明らかにされている今回の件の経緯は、母親に連れられて運転室のすぐ後ろに乗っていた運転士の息子が、運転室と客室を仕切るガラス窓を頻りに叩いたため、駅に停車した時に注意しようと運転室の扉を開けたところ、息子が運転室に入ってきて座り込み、そのままむずかって泣き出したので、その状態のまま隣の駅まで電車を運転したというものです。
 入ってきたのは運転室からの景色が見たかった子供ではなく、むずかって泣き喚(わめ)いている3歳の男児です。その場で暴れだしたら、列車の運行に直截(ちょくせつ)の危険はなくたって、父親である運転士は気が散るでしょうから、何かあった時に対応が遅れる可能性は十分に考えられます。更に、運転士の体を揺さぶったり、膝の上によじ上ってきたりしたら、安全運行の妨げにならない訳がないばかりか、直截の危険だって十分に考えられます。
 「問題ない」と言っている人達は何を根拠にそんな主張が出来るのか、私には全く理解出来ません。「事故が起きてからでは遅い」という意見の方が、ずっと説得力があります。

 ところが一筋縄ではないのは、「子供が運転室に入っただけで事故に繋がる可能性はない」、けれど運転室に乗務員以外を入れる事は絶対にあってはならない…という意見もあるのです。運転室をどういう場所を捉えているか、言葉では表せない人それぞれの感覚も、意見の形成に大きく影響しているのかもしれません。


 運転室への乗務員以外の立ち入りは東武鉄道の内規によって禁じられているばかりでなく、法律上も鉄道営業法第33条によって、「旅客」が「列車中旅客乗用ニ供セサル箇所ニ乗リタルトキ」は2万円以下の罰金または過料に処す事を以って、禁じられています。当然、これらの規則や法律は3歳児であっても適用されますが、幼児にこうした決まりを理解する能力はありませんから、違反した場合の責任は親権者である両親、つまり今回の場合は正に現場に居合わせていた運転士たる父親と、子供を連れていた母親にかかってきます。
 これに対し、「規則の杓子定規な運用が運転士の心理的圧力となり、尼崎での重大な脱線事故に繋がったJR西日本の教訓に学んでいない」として、運転士夫婦を擁護する声があるそうです。これも私の様に、むずかる3歳児を運転台に入れた状態で運転するのは危険だという認識に立てば支離滅裂な発想にしか思えないのですが、危険ではないという考えに基づくと、重箱の隅を突つく様に些細な形式的違反を取り上げて、懲戒解雇の様な重い処分を課すのは労働者いじめだという結論になる様です。
 運転士としても親としても責務を怠った今回の東武の事例と、安全運転の結果による数十秒の列車の遅れをも処分対象としていた様なJR西日本の事例がどうして同列に語れるのか、私にはこれまた全く理解不能ですがね。しかも今回の件では、子供を運転室から出せずにいるうちに発車時間になったからといって、そのまま発車してしまった事が問題視された訳ですから、実は東武の姿勢はJR西日本のそれとはまるで正反対なのです。

 処分は仕方がないが、懲戒解雇は余りにも厳しいという声もある様です。確かに、結果として何も起こらなかった訳ですから、減俸などの上で乗務から外して内勤に回す程度の処分でも軽くはなかったと思いますが、これも、何事もなかったのはあくまでも結果論に過ぎないと考えるなら、懲戒解雇でも重過ぎではないとも言えます。
 そしてこれまた一筋縄ではないのは、規則や法令は絶対に守られなければならない、けれど今回の件で懲戒解雇をするのはやり過ぎた…という意見もあるという事です。これもやはり、規則というものに対する捉え方の違いが、人それぞれの考えに反映した結果かもしれません。


 それにしても、この運転士が犯した過ちは決して軽くないものの、むしろそれより腹立たしいのは、男児を連れて電車に乗っていた母親は何をやっていたのかという事です。
 むずかる3歳児でも、大人2人の力を以ってすれば運転室の外に出せなかったとは思えません。定めし、我が子が運転室に入り込むのを止めもしなければ、夫が我が子を運転室から出そうとしている様子も、ただ傍観していただけなんでしょうね。そこで「自分は運転室に立ち入ってはいけない事になっているから…」などと言い出すなら、それこそ杓子定規な解釈であり、親としての義務も果たしていなければ、夫の仕事を理解してもいないと言えるでしょう。
 運転士より、最も責められるべきはこの愚かな母親だとは思うのですが、法律や職務規則の上では単なる一乗客でしかないのですよね…。

11月30日の記事「東武の「身から出た錆」−−東武鉄道運転士解雇で考えた事(中)」に続く

※後日の関連記事
(12/15)鉄道営業法第33条

※11-22 03:58、一部加筆・修正しました(論旨の追加を含んでいますが、論旨の変更はしていません)。
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息子が入ってきたのでクビ 東武鉄道(厚樹のつれづれなるままに)

2005年11月18日

慶事に隠れた“宮内庁の横暴”から目を逸らすな

 去る15日に「紀宮清子内親王殿下」から“平民”の身分へと下りて来られた、黒田清子さん。新居が完成するまでの仮住まいの場所は一切公表されていませんが、周辺住民は既に知っているらしく、商店主などは「清子さんが突然、買い物に来たらどうしよう」などとハラハラしているとか…。
 一方で、披露宴で乾杯の音頭をとった石原・東京都知事は、「慶樹さん、おめでとうございます。乾杯!」と、その極右的な思想とは裏腹に、何故か清子さんの存在を“完全無視”。そりゃ、夫・慶樹さんが都職員である縁で招待されたのには違いないですけど、夫婦の門出の席なんですから、平等に両方の名前を呼んであげたっていいじゃないですか〜。


 ところで、余り大きく報じられなかった様に思えるのですが、帝国ホテルでの結婚式と披露宴の間に行われた新郎新婦の記者会見について、宮内庁がNHK記者の出席を事実上拒否するという出来事がありました。会見の代表撮影を行ったのがNHKだったため、NHKのニュースでも会見の画像や音声は流れましたが、記者は出席していませんでした。
 理由は、内親王が御所を出発する様子をヘリコプターから撮影して、生中継したから。宮内庁は警備上の都合を主な理由に、報道各社にヘリ取材の自粛を要請していたそうです(「紀宮さま結婚:NHKの上空ヘリ取材に抗議 宮内庁」毎日新聞)。
 私はその生中継を見ていたのですが、一体どこから撮っているのかと思いたくなる位に、望遠での撮影である事が判る画像でした。実際、撮影したNHKのヘリは、警視庁が設定した飛行自粛要請区域の外側を飛んでいたそうですから、宮内庁が心配する様な警備上の問題は全くなかった事になります。
 場所や状況によっては、周囲の様子が丸見えになると今後の警備に差し支える事も考えられますが、御所があるのは、それこそ上空から突撃でもしない限り一般人は絶対に立ち入れない、皇居の奥の奥です。周辺の施設の配置などは、航空写真や衛星写真などの方がよほど容易に把握出来ますし、周辺に特別な警備が敷かれている風もありませんでした(…というか、そんな必要のある場所ではない)。

 では、宮内庁が怒った本当の理由は何だったのか。その本音がはっきりと読み取れる記事が、こちらです。→(「ヘリ中継のNHK、宮内庁が会見拒否」読売新聞

 「気分の問題」

 …ハァ?

 早い話が、当の皇族方がいくら「出来るだけ国民と同じ様に…」と願われようが、宮内庁の役人連中にとっては、皇室と“下々の者共”は出来るだけ隔離された存在でなければ、自分達の箔に係わる訳ですよ。
 天皇陵と伝えられる古墳の学術調査を、宮内庁が妨害し続けているのと同じ魂胆。「自分の祖先の墓を暴かれるのは誰だって嫌なはず」とか、宮内庁はさももっともらしい理由付けをしていますけれど、一般人の墓と皇室の墓が同等である訳がない。当然、皇室の墓の方が比較にならない位に大切ですけど、それは、この国の歴史、日本という国の何たるかと、大いに関係があるからですよ。
 勿論、私は皇族方とお会いした事など一度もないですけれど、本当に皇室の方々が、伝えられている通り「開かれた皇室」を指向なさっているのであれば、我が国の来歴を明らかにしようとする学究的な試みや、家族が皇室から一般の世界へと踏み出す瞬間を国民に見て貰う事を、不本意に思われているとは到底思えないのです。

 NHKとしては、まさか宮内庁と喧嘩をする訳にはいかないのでおとなしく謝罪をしたのでしょうし、ましてや他の民間の商業マスコミ各社は、宮内庁と喧嘩をして、いい事なんてある訳がないので、素直に従うしかなかったのでしょう。
 そう考えると、帝国ホテル前の絶妙な位置にカメラを構え、内親王が自動車から降りてホテルに入る様子を、宮内庁の要請に抵触しない形で生中継する事に成功した日本テレビは、実は大殊勲だったと言えそうです。宮内庁の関係者は苦虫を噛み潰した様な顔をしたかもしれませんけどね。


 聞くところでは、戦前、皇族方が雑学的な興味や西洋の哲学などに興味を抱かれた時、皇室のためという口実の下に、その好奇心を押さえ付けたり、本を取り上げたりしたのは、他でもない周囲の連中だったとか。大きな存在であった先帝・昭和天皇は、科学者でもあるという異色の存在でしたが、先帝の長い時代を経ても、どうやら皇室を取り巻く世界に科学的合理性の発想を植え付ける事は出来なかったみたいです。
 女性・女系天皇への賛否など、皇室のこれからについて議論が高まっていきそうな今後ですが、皇室を取り巻いている怪しい役人共と組織の改革についても、是非とも政府で検討して頂きたいと思います。

2005年10月10日

政府は国勢調査の維持に死ぬ気で取り組め

 日本の国勢調査は世界的にも貴重な存在だって、知ってました?

 ある市民講座の自由質疑の場で大学教授から伺った話なのですが、例えば米国や西ドイツでもかつては日本同様に、国勢調査を悉皆(しっかい)調査(無差別抽出による標本調査などではなく、対象者全員、つまり国勢調査であれば国内に住んでいる全員を漏れなく調査する事)として行っていたそうです。
 ところが米国では、悉皆調査は費用がかかりすぎるという理由でやめてしまい、現在は標本調査に移行してしまいました。
 また、西ドイツでは1980年代にプライバシー保護を理由とした国勢調査ボイコット運動が起こり、国勢調査員も音を上げてしまった事から、現在では住民登録や社会保険のデータを使って、必要な統計を出しているそうです。一見、問題なさそうに見えますが、日本同様、引っ越しても住民票を動かさない単身者なども少なくないため、住民登録などで代用した国勢調査の精度は意外と低く、その誤差を修正するための研究が、まだ続いている状態なのだそうです。

 統計学的には、調査対象の0.5%(…だったかな?)を無差別抽出して調査すれば十分に信用出来るデータが得られるらしいですが、あらゆる国内政治の基本となる国勢調査に求められる精度は、マスコミの世論調査やテレビ視聴率調査の比ではありません。そもそも、母数たる総人口の正確な数が把握出来ない様では、適切な標本(調査対象者)選びにも限界があります。
 つまり、悉皆調査に勝る国勢調査はないのです。

 悉皆の国勢調査は、国内の文明や治安が一定水準に達していないと困難ですが、一方で社会の複雑化が進んだり、人口規模が余りに大きくなってしまったりすると、余程の努力をしない限り、その維持は難しくなります。
 その点、世界屈指の経済大国であり、それに見合った複雑な社会構造を有し、かつ億単位の人口を抱える日本が、今も悉皆の国勢調査を続けているというのは、世界的に見ても得難い事例だといいます。しかも、世界に先駆けて少子高齢化が急速に進展する日本の国勢の推移が、悉皆調査によって把握出来続けているというのは、世界中の他の諸国が今後の政策立案をする上でも貴重なのだそうです。


 けれど日本国内では以前から一部に、国勢調査の手法に対する強い批判がありました。中でも深刻なのは、一部の国勢調査員の資質の問題でしょう。地域の顔役や「放送局」と綽名(あだな)されている様な人が国勢調査員を務め、国勢調査で答えた事柄が周辺住民に漏れ伝わってしまったという例は、新聞などでもしばしば目にしてきました。
 しかし政府は、国勢調査員の身分は臨時の国家公務員なので、法律上は守秘義務があるという形式論ばかりを根拠に、積極的な個人情報保護策をとろうとはしてきませんでした。現実が法律の字面通りに動くとは限らない事ぐらい、常識人であればすぐ分かる事なのに…。

 そうした怠慢の“つけ”がどうやら今年、政府に一気に回ってきた様です。
 今日・10日は、今月1日付で実施された第18回国勢調査の調査票の回収期限ですが、前々回(10年前)は99.5%以上あった回収率が前回(5年前)は98%程度にまで下がり、今回は更に大きく低下するのが確実と言われています。
 個人情報保護法という法律まで作られた事で、プライバシー権への国民の意識が急速に高まり、国勢調査を拒む人が大幅に増える可能性があるという話は、今回の調査が始まるかなり前から報道されていました。その報道には「国勢調査は個人情報保護法の適用外である事を説明して理解を求める」という国の担当者の談話が添えられていましたが、元々国勢調査に協力する気が薄い人達に積極的な参加を促すには、「法律で認められているのだから答えろ」だけではなく、答えてやろうと思わせる“演出”も必要ではないのかと思っていました。

 先月下旬、我が家にも調査票が配られてきました。今回の調査票は茶封筒に入れられていて、これに密封して提出すれば、調査票を回収する国勢調査員は開封せず、そのまま市区町村役場に渡される決まりになっています。
 前回は確か、調査票と一緒に渡されるパンフレットに挟んで、周囲をテープで密封して提出すれば同様の扱いが受けられる事になっていたと記憶していますが、それに比べれば、封筒を付けたのは多少なりとも前進でしょう。ところが、この封筒に記入した調査票を入れても、秋の強い日差しに透かしてみれば、記入内容が丸見えなのです。
 封筒は中に調査票がちゃんと入っているか確認出来る様に、口の一部が切れているのですが、そんな事をしなくても手触りで分かる程度の薄手の封筒です。また、よく銀行や電話会社などが明細書を郵送してくる封筒の内側に、透かし見が出来ない様に複雑な模様が印刷してあったりしますが、そうした配慮も一切ありません。住所と名前を書くだけの葉書を提出させるのにさえ、目隠しシールを添えるのが当たり前になりつつある時世というのに…。

 それどころか、この封筒に入れて提出するかどうかは任意であり、出来れば封筒には入れず、以前の様にむき出しのまま国勢調査員に提出して欲しいというのが、調査を主導する総務省統計局の見解だというのです。封筒に入れて渡されると、調査票の不明な点を本人に電話等で確認するという、本来は国勢調査員の役目である作業を役場自身が行わなければならず、任務が過重になるためだと言いますが、それを国勢調査員が行っている事こそが国勢調査への不信の一因であるという現実を、どうして直視しないのでしょう。
 第一、封筒に入れるかどうかが任意では、意識の低い調査員が勝手に開封して役場に提出しても、分からないではないですか。もっとも、こうした統計局のいい加減さに疑問を抱いた一部の市区町村では、同局の意向にかかわらず、全ての調査票を密封して提出・回収する様に広報・周知したそうです。
 また、個人情報保護法などを盾に回答を拒む事への危惧も強かったはずなのですが、封筒やパンフレットの説明書きを読んでも、調査員には守秘義務があるのだという紋切り型の“説教”が書いてある程度で、国勢調査への協力意識と信頼を今まで以上に醸す様な文言は、どこにもありませんでした。


 今までと大差ない手法では、拒否者が大幅に増える危険性が極めて高いとされる今回の国勢調査なのに、本当にこんな楽観的な態度で大丈夫なのだろうか…と思っていたら、案の定のトラブル続出です。(「国勢調査、崩壊?!」毎日新聞10月8日夕刊
 プライバシー保護を理由とした回答拒否や、調査員が匙(さじ)を投げて職務を抛棄(ほうき)してしまうといった結末は、昔、西ドイツで悉皆の国勢調査が破綻(はたん)した時の経緯そのままです。しかも前出の教授によれば、プライバシーを口実に国勢調査まで拒んだという西ドイツの事例は、世界的にも珍しいものだったといいます。まさに、日本の役所が如何に学習能力が低く、無神経であるかの現れと言うべきではないでしょうか。

 西暦の一の位が5の年である今回の国勢調査は、調査項目が少ない「小調査」と呼ばれるものでした。しかし、一の位が0である次回・平成22年(2010年)の国勢調査は、今回の倍近い項目を細かく尋ねる「大調査」です。
 政府が次回も今回と同じ様な認識で臨めば、凄まじい規模で回答拒否者が激増する事は、火を見るより明らかです。それは世界的にも貴重な日本の悉皆型国勢調査の破滅を意味し、日本自身の政策立案への足枷(あしかせ)になるばかりでなく、日本が先進工業国として世界や後進国に果たせたかもしれない責務の1つを裏切った事にもなります。

 政府は、日本で悉皆型の国勢調査を維持するための方策作りに、死ぬ気で取り組むべきです。そのためにはまず、国勢調査の意義を国民に懇切丁寧に啓発し、悉皆型でなくても十分だという意見も含めて、精度の高い国勢調査を維持するためにはどうしたら良いか国民から広く意見を集め、専門家も交えて徹底的に話し合うべきです。
 昭和50年から日本の国勢調査の手法を批判し、悉皆型である必要はないと批判する「国勢調査の見直しを求める会」という市民団体がありますが、この団体も国勢調査の必要性自体は大いに認めています。国勢調査は国や地方の運営に欠かせない大切なものであり、日本の国勢調査は世界的に貴重な存在であるというメッセージは、本来、個人でも市民団体でも学者でもなく、政府が自ら国民に伝えるべき事ではないのですか。

2005年09月13日

喋れば喋るほど自滅した民主党

 「つくばエクスプレス」が開業した先月24日の朝8時頃、浅草駅で発売された記念乗車券を手に入れた私は、駅の外へ出てみました。浅草は地下駅なので、階段を上がって外に出るまで、出口がどこに出来たのかも、開業を受けて駅周辺がどんな感じになっているのかも、分からなかったのです。
 駅前では、公示を6日後に控えた総選挙に向けて、浅草を含む小選挙区から立候補する民主党の前職が、電子拡声器を使って辻立ち演説をしていました。駅出入口付近の様子を撮影していた私の耳にも、その演説の声は嫌でも聞こえてきました。

 「今、小泉首相が、郵政法案に反対した議員を潰すために、刺客として送り込むべくして集めている、マドンナ候補と呼ばれている人達。皆さん、既に御存知の事と思いますが、この人達は『小泉喜び組』と呼ばれているんです。小泉さんに声を掛けられたら大喜びして、気に入られるために言いなりになる女性達。これはもうまるで、某国の将軍様に仕える『喜び組』と同じではないかという事で、『小泉喜び組』と呼ばれている事を、皆さんも既に御存知の事と思います。」

 正確にこういう言い回しではなかったかもしれませんが、内容としては、こういうものでした。
 …あの、私、「小泉喜び組」なんて聞いた事もないんですけど…?
 因みに今、Googleで「小泉喜び組」で検索をかけてみたら、「小泉よろこび組」と合わせても結果は11件。しかも、うち5件は「2ちゃんねる」でした(汗)。う〜ん…この政治家の選挙参謀が「2ちゃんねらー」だったのか、それともまさか本人が「2ちゃんねらー」で、世間の有権者も8割方が「2ちゃんねらー」だと思い込んでいるのか…??
 それはともかく、この催眠商法みたいな演説を聞いた瞬間、今回は民主党は駄目だろうな…と直感しました。

 衆議院が解散された日、民主党の岡田代表は、有権者は今度の選挙の争点が「郵政」だなどと、いつまでも騙されてはいない…と、これも正確な言い回しは忘れてしまいましたが、大要そんな事を言っていました。街頭演説だったか、議員総会だったか、テレビ出演だったかは忘れてしまいましたが、場面や言い回しを変えて、複数の場所で同じ趣旨の事を言う姿をテレビで見たのを記憶しています。
 「有権者の皆さん、騙されてはいけません!」と直截(ちょくせつ)的に訴え掛けるのならまだしも、今の自分達と認識を事にする人達は騙されている人達なんですよと、客観を装って表現する感覚。郵政問題で元々小泉政権を支持していた有権者の中には、馬鹿にされたと受け止めて、民主党への反発を一層強くした人も少なくなかったはずです。政治家ともあろう者が、何でこんな迂闊(うかつ)な事を口走ったのかと驚いてしまいました。

 けれどその後も、岡田代表の発言をテレビなどで見れば見るほど、「あんたはもう黙っていた方が党のためだよ…」と思わずにはいられなくなってしまいました。何を喋ったのか、具体的には思い出せません。ただ、中身のない言葉と自民党の中傷だけが多かったという印象だけが残っています。
 私の地元では、民主党候補者の選挙カーだけが、やたらとうるさかったです。勿論、他の広報車の選挙カーも時にうるさかったのですが、民主党のものの音量はひときわ大きく、回って来る回数も頻繁で、それでいて具体的な政策について話していたという印象はやはりなく、どうにも癇(かん)に触りました。

 それに引きかえ、民主党による1対1の党首討論の要求を、「全ての党による党首討論が予定されているのに、他党に失礼だ」という理屈でその手に乗らず、「自民党は反対派の声を聞かない様な心の狭い党ではなかったはずだ」という国民新党に対しても、「我々が聞くべきは政治家の声ではなく有権者の声」と言い返す自民党執行部の弁舌は、まさに昔の自民党とは別物に生まれ変わったかの如くに鋭く明快で、印象に残りました。

 才能と喋りの上手さは必ずしも比例しませんから、口下手が駄目だと一概に言う気はありませんが、弁舌は政治家の最も基本的な武器です。そうでなくても、選挙の様に長い時間をかけ、少なからぬ情報を通じて考える時間があるものであれば、ただぺらぺらと喋っているだけの人と、喋りは下手でも考えている事がはっきりしている人との区別は、経験を積んだ大人であるほど出来るものではないかと思います。
 その点、喋れば喋るほど自滅していったと言うしかない民主党の姿には、これが我が国の第2党とは嘆かわしいと言うほかありません。

2005年08月29日

郵政民営化反対派の主張に説得力なし

 最近までなかなか世論には浸透しなかった様ですが、郵政民営化の本懐は郵便配達事業のサービス改善などといった小さな話ではなくて、郵便貯金と簡易保険による資金の流れを改革するという大きな課題の実現にあります。
 かつてなら全額が自動的に財政投融資へ、現在も大半が国債へ流れ、国家財政の逼迫(ひっぱく)が糊塗されてきた状況を打破するのが、民営化の最大の目的です。借金の“入り”を締めれば“出”も締めざるを得なくなりますから、これまでの様な小手先の付け焼き刃的な「改革」では済まされない、骨のある“本物”の行財政改革を嫌でも進めるしかなくなるという訳です。
 従って、「郵政民営化こそ改革の本丸」「郵政民営化程度の改革も出来ずして、改革を語るなど烏滸(おこ)がましい」という小泉首相の主張は全く正しいのであって、世論調査で国民が郵政より遥かに高い関心を示している社会保障や景気の問題も、実は郵政民営化問題と見えない部分で密接に関係しているのですが、そういう具体的な事を自ら国民に語りかけようとしないのがあの宰相の悪いところで、そのため守旧派の「郵政が民営化されれば郵便局が減る」「過疎地では郵便局のサービスが受けられなくなる」などといった反論が、説得力があるかの如くマスコミや一部の世論に受け入れられてしまっているのでしょう。

 「郵便局」のサービスが受けられなくなるからといって、直ちに「郵便」「預金」「生命保険」といったサービス自体が受けられなくなる時代では、もうないはずです。郵政公社に比べれば遥かに小さな一民間企業に過ぎないヤマト運輸の「宅急便」が、ほぼ完全な全国展開を実現しているこの時代に…ですよ。
 それどころか現在の小泉政権は、郵便局網の維持を明確に約束しています。電電公社が全国均質の役務提供(ユニバーサルサービス)を義務付けられたまま民営化して20年が過ぎましたが、過疎地で電話が使えなくなった事例というのは、あるのでしょうか。

 民営化反対派は、庶民や過疎地住民の大切な貯蓄手段である郵貯・簡保を完全な市場主義原理の中に放り出すのは、弱者切り捨てだとも非難しています。
 確かにその通りかもしれませんね。今や銀行(民間金融機関)は金持ちだけに高金利の預金、低金利の融資、割安な手数料を適用して優遇し、一方で平均的な人達が受け取れる預金利子は極めて低く、逆に払わされる手数料は上昇傾向にあります。加えて、ある日突然銀行が破綻して預金が下ろせなくなってもおかしくない時代ですが、貯蓄額が少ない層や、銀行の店舗が少ない地域の人達、ネットバンキングなど最近の仕組みに疎い高齢者などは、預金を複数の銀行に分散させようにも限界があります。
 …と、色々書いてはみたものの、これって全部、自民党政権がバブル膨張期の頃から進めてきた金融自由化政策の結果でしょ? 「護送船団方式」の頃は、どこの銀行にどれだけお金を預けても、銀行から見ても預金者から見ても、みんな平等、横並び。その代わり、預金が凍結される心配もなければ、手数料水準も今より低かったし、窓口のある支店も沢山ありました。
 それを自由化すれば、景気が絶頂のうちはいいけれど、そのうち“持つ者”と“持たざる者”との間に大きな待遇格差が生じてしまう事ぐらい、当時、別に優秀でも何でもない高校・大学生だった私でさえ気付いてましたよ。反対派の中には当時から政治家だった人達も少なからず見受けられますが、あなた達は当時気付かなかったんですか?
 そんなはずはないですよね。それだけでなく政治家なら、自由化・国際化という波の中に一旦船を漕ぎ出せば、もう後戻りは出来ないし、最終的には全ての船を“海”に出さなければ経済構造の辻褄が合わなくなってしまうのだというところまで理解していなければならなかったはずですよね。
 今更、思い出した様に弱者保護などと都合のいい甘言をお言いでない。

 民営化の是非そのものの議論に隠れて最近は忘れられがちですけど、要は特定郵便局長会の集票力、地域社会への影響力を頼りにしてきた政治家が、それを期待出来なくなるのが怖くて反対しているというのが大半なんでしょ?
 民営化に反対して自民党を飛び出し、新党を設立した大物政治家が、小泉首相の政治手法を非難して「ノーと言える政治を取り戻す」と言ってみせたのには笑ってしまいました。反対派の中に、選挙区の特定業界や出身同窓会などを通じて圧力をかけ、ノーと言わせない様にさせて当選してきた政治家、「自民党の議員が当選しなかった選挙区には公共工事を割り振るな」と公言し、大都市都心部の住民が団結して建築基準緩和に反対したのを「都会人のわがまま」の一言で切って捨てた過去がある政治家も混じっているという事を、覚えている有権者はちゃんと覚えていますよ。
 郵政民営化は日本の行財政だけでなく、政治風土や社会構造を改革する入口でもある…。まさに「改革の本丸」ですね。

 以上、明日からは迂闊(うかつ)な事が書けなくなりそうなので、今日中に書いておきます。

2005年08月11日

どうせ本当は「原爆は広島だけの事」だと思ってるんだろ。

 6日(広島原爆忌)午前、全国高校野球の開会式に参加するために集まっていた各都道府県代表校の選手らに対して、広島県代表・高陽東高校の選手が、原爆が投下された8時15分に合わせて一緒に黙祷(もくとう)を捧げて欲しいと呼び掛けようとしたところ、居合わせた田名部和裕・高野連参事に止められ、高陽東の選手達は仕方なく自分達だけで黙祷を行うという出来事がありました。(多くのマスコミで報じられているので、報道記事へのリンクは略します。)
 高陽東は、主催者側の事前承諾は得ていると認識していた様ですが、実は話を持ち掛けた相手は朝日新聞の記者で、この記者から大会本部や高野連への連絡がきちんと行われていなかった事が、後に朝日新聞社によって明らかにされました。
 勿論、主催者として行うべき内部伝達を怠った朝日新聞の責任は大きいですが、幾ら朝日新聞が共同主催者だからといって、一記者への相談を以って主催者の承諾を得たと早合点した高校側の認識も甘いと言うべきでしょう。(…となると、高校側はそんな短絡的な思い込みを本当にしていたのか?、言い換えれば朝日新聞側の発表内容は真実なのか?という疑問が湧いてきますが、こればかりは真偽を調べようも推測使用もないので、朝日の主張を信じるしかありません。)

 さて、この一件を巡り毎日新聞が6日夕刊で、田名部参事が黙祷の呼びかけを制止した際に「原爆は広島だけの事。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と発言したと報じた(記事では同参事の名は一部匿名になっている)のに対し、同参事がこれを否定し毎日に抗議するという出来事がありました。

毎日新聞の6日夕刊の記事
同参事が同紙に抗議した事を伝える同紙記事

 同紙は本人への確認取材を怠っていたとして記事を取り消し、大阪本社の管理職2人を処分しました。事実がどうあれ、こんなとんでもない発言の真偽を本人に確認せず記事化してしまっては、後で揉めても仕方ない事かもしれません。

 もし本当に「原爆は広島だけの事」という発言をした人がいたとしたら、不用意な言葉遣いと言わねばなりませんが、高野連関係者が事前に承知していなかった黙祷の呼びかけを制止したこと自体は、責められる話ではないと思います。広島の原爆に限らず、先の大戦では多数の犠牲者が出た日は日本だけに限っても沢山あるのですから、「広島のことも長崎のことも含めて、大会行事として(終戦記念日の)8月15日正午に黙とうして」(6日夕刊の記事より)いるという同参事の見解自体は、間違っていません。
 しかし、本当に「原爆は広島だけの事」でしかないという様な狭い考え方はしていないのであれば、長崎の原爆についても同様に「長崎だけの事」とは考えていないはずであり、少なくとも長崎の人にとって長崎への原爆投下は特別な事だから、長崎県代表校の選手は8月9日の午前11時02分に黙祷を捧げるのが当然という考えに行き着くはずですよね。

 実際はどうでしょう。9日の午前11時、つまり原爆投下時刻の僅か2分前に始まった第2試合に出場したのは、長崎県の代表校でした。黙祷は試合前に済ませたそうです。
 たった2分。そこから1分間の黙祷をしても全部で3分です。ほんの3分だけ試合開始時刻を繰り下げるという程度の配慮を、何故、主催者はしなかったのでしょうか。
 長崎という地を代表して何かに参加している人には、世界に2つしかない被爆都市の1つを抱える地の名に於いて、原爆投下時刻に黙祷を行って慰霊すると同時に、被爆地たる事をアピールする権利と義務があるはずです。そして、高校生を含む子供達に、原爆や広島・長崎の存在が歴史上に持つ特別な意味を認識させるのが、日本の大人の責務であるはずです。

 長崎県代表校の試合が原爆投下時刻に重なってしまった例は、過去にも少なくとも1回あったと記憶しています。その時も、黙祷のための試合中断などは一切ありませんでした。
 歴史的に意味深い「8月9日午前11時02分」という瞬間に、長崎の人達は“たかが高校野球”に現(うつつ)を抜かしていていいのでしょうか。また周囲はその瞬間に、長崎の人達にそんな事をさせていいのでしょうか。そして世間、とりわけ他の高校球児を含め、高校野球を一番熱心に見ているであろう中高生世代の子供達に、原爆忌より高校野球の方が重要事だと認識させかねない様な事をさせていいのでしょうか。
 試合を中断したり、試合開始を繰り下げたりして皆で黙祷したりしても、関係するのは長崎県代表校とその対戦相手だけ、つまり当事者と、今まさに当事者と向き合っている人だけです。今回の広島の件のように「みんなを巻き込む」ものではありません。
 そう考えると、黙祷の時間を主催者に要求しない長崎の人達にも不甲斐なさを覚えますが、やはりそれ以上に主催者自体の不見識ぶりに怒りを覚えます。結局、「原爆は広島と長崎だけの事」が、高野連の幹部連中の本音なのではないですか? 定めし、あの記事を書いた毎日の記者は霊感か何かが強い人で、取材で彼等の言動に接するうちに“心の声”が聞こえてしまったんじゃないですかね。まぁ、声に出して言っていない事を「発言」として記事にしてしまっては、背景がどうあれ誤報の謗(そし)りは免れませんが…。

 多くの国民を熱狂させる高校野球という存在を通じて、日本の高校教育の世界を掻き回している高野連なる団体は、こんな、教育者としての当事者能力と見識を欠いた組織なのです。
 そして、高野連と一緒になって、長崎原爆忌の時刻に長崎県代表の高校生達に野球をさせて何とも思わない不謹慎な共同主催者こそ、普段は我が国の新聞で最も平和主義を嘯(うそぶ)いて止まない朝日新聞なのです。

2005年06月13日

出題内容の問題だけではない−−ひめゆり「退屈」問題について

 東京の名門私立高校、青山学院高等部が今年2月に行った入試の英語の問題の中で、沖縄の元「ひめゆり学徒」の戦争体験談は退屈だという内容の長文読解問題が出されていた事が(何故か4か月も経った今頃になって)報じられ、問題になっています(読売新聞の記事)。
 同校は12日、「大変不適切な表現があり、元ひめゆり学徒の方々はもとより、沖縄の方々のお気持ち、また全国の皆様のお心を傷つける部分がありました」などとする「お詫び」を公表しましたが、元学徒達の反発は相当なものの様です(青学高入試問題に元ひめゆり学徒「許せない」:琉球新報・11日)。
 それはそうでしょう。この文章は同校の教員が自らの経験を基に、修学旅行生の感想文に話を置き換えて書き下ろしたものだそうですが、これでは公的な立場でも何でもない元学徒達の“語り部”活動を論(あげつら)って、子供相手に「あの人達の話は退屈です」と陰口を利いているも同然です。
 彼女等の活動に疑問を抱いたのなら、なぜもっときちんとした形で問題提起をしなかったのでしょうか。

 手前味噌ではありますが、私は昨年8月9日の記事で横浜の例を取り上げ、“語り部”活動をしている人達の戦争体験談は聞き手の心に響いていないのではないかと懸念する指摘をしていました。
 私自身は元ひめゆり学徒の語りを聞いた事はありませんし、今回問題になった試験問題そのものも手許にないので断定的な事は言えませんが、「彼女が話せば話すほど、洞窟で受けた強い印象を忘れてしまった」「彼女は(中略)話がうまくなっているのが分かった」というのは、執筆した教員の偽らざる本音だったと思うのです。
 日本で最も悲惨な激戦の体験談を当人から直接聴けるというのは、本来は非常に貴重な体験であるはずなのに、その“語り部”活動が実は説得力を失ったものだったとしたら、それは実に深刻な事態であるはずです。そして教員という立場の人間が、得難い平和教育であるはずの活動にそういう懸念を抱いたなら、新聞や教育雑誌に投稿するなりして、きちんと真正面から問題提起をする責務があるはずです。
 なのに何故この教員は、子供相手に不満をこっそり言い散らす様な行動にしか出なかったのでしょう。事前に試験問題の内容を教員全体で確認しておきながら、根本的な修正をしなかったという学校もろともの無神経さに加え、自らが抱いた問題意識を、教員という立場からどう表明すべきかが分からない職業意識と表現能力の拙さに、それが全国的に名の知れた、優秀とされる学校での出来事だという点と合わせて、愕然とさせられます。

 一方で、こんな形でとはいえ、元学徒の“語り部”活動の効果に疑問が生じた以上、彼女達や、その活動を支えて来た人達も、今までの活動への検証や見直しをしなければならないでしょう。彼女達の話を真摯(しんし)に受け止め、心に刻まなければならないのが人の道とは言いながら、理想論や義務感だけで望ましい印象や感想が抱けるというものではありません。「理解しろ」「印象に残せ」という命令は不可能なのです。
 自らも元学徒である「ひめゆり平和祈念資料館」の館長は、問題になった英文の「話がうまくなっている」というくだりに対して「私達は話しづらい体験を語っている。許せない」と憤ったそうですが、この受け答えには自己陶酔で“語り部”をやっているのではないかという片鱗を見て取らずにはいられず、当事者として資料館館長をしている人の発言としては、むしろ不安を覚えます。因みにこの館長は、正誤選択の試験問題に使われた事にも批判を浴びせている様ですが、これも読解問題への批判としては筋違いです。
 しかし、その他の“語り部”の中からは今回の件を受け、「伝わっているという自信はあったが…。どう伝えればいいのか」という迷いや、「もっと工夫しなければならない」という声も上がっているそうです。戦争体験を次代へ効果的に語り継ぐにはどうしたら良いのかという真の問題解決への道は、全てここから始まるものと考えます。

2005年06月11日

誤字に開き直った司法試験委の大罪

 日本の裁判官が書く判決文は、悪い作文の見本市だ…と、誰だったか文化人が、かつて雑誌で批判していました。文字通り、国語的観点から見て余りにも下手糞な文章が多過ぎるという意味です。
 判決文や法律の条文には、幾通りもの解釈が出来る様な曖昧さを排した表現が求められますが、日本語それ自体が、時に曖昧と評される事もある言語ですから、その日本語を使って厳密な文を書こうとすれば、どうしてもある程度は複雑で回りくどい言い回しになってしまうのは止むを得ない側面もあります。
 しかし、判決文が“悪い作文”とまで評される背景は、それだけではないでしょう。法曹界の人達や、司法試験受験生など法律を学んでいる人達が日頃接している法学書に“悪い作文”が非常に多く、彼等の国語的感性を麻痺させている部分が非常に大きいと思うのです。

 出版社の編集者の下で、大勢の専門家(主に大学の学者)が共著したシリーズ物などであれば、表現のプロたる編集者も含めた沢山の人達が中身作りに関わっているからか、なかなか熟(こな)れた表現に仕上がっている本もあります。しかし、執筆する学者1人1人の受け持ちが明確に区分されていたり、完全に1人だけで執筆された論文的な法律書となると、正に“悪い作文”としか言い様のない、ひどい文章で埋め尽くされた物が少なくありません。
 最も多いのは、読み易い様に適度に短く切るという、綴り方の大原則を忘れた文。これは日本語に限った心掛けではないと思いますし、小学校の国語で習う程度の作文技術なのですが、幾ら読み進めても句点が現れず、1つの文が2ページも3ページもだらだら続く文章が、本当に目立つのです。
 その他、強調のために、ごく限定的に使うのが好ましい「傍点」を乱用するのも法律関係者に多く見られる傾向で、丸々1ページかそれ以上にわたって、間断なく延々と傍点が打たれている例さえあります。あと、余談ですが、私が通っていた大学には、民法が専門のくせに「契約」の「契」の字を正しく書けない常勤講師がいました。
 ああいう「優秀」な世界には、非常に気難しい人も多いでしょうから、“たかが出版社の編集者”が下手に手直し出来ない事情もあるのだと思います。勿論、作文の上手い学者もいますが、自分が教えている大学院生に添削を押し付けて“作文の上手い学者”面をしている者もいる様です。

 そして、判決文に見られる“悪い作文”の傾向も、ほぼ同じものです。私は法学部を卒業して10年以上が経ち、法律関係の仕事をしている訳でもないので最新の事情は知りませんが、今も同じと考えて間違いないでしょう。
 裁判官という、近代社会の根幹を成す高尚な職務であると自他共に認めているであろう人達や、その立場を目指している人達が、普段から低質な国語に囲まれて仕事をし、または憧れ、没頭しているなら、彼等の国語力や、その重要性に対する理解が衰退するのも宜(むべ)なる事です。
 国語力の低さは、意思疎通能力や思考力の低さに直結する深刻な問題であるという事は、最近になってようやく一般にも認知される様になってきました。裁判官など法曹人の国語力に問題があるという事は、彼等の一般人に対する意思疎通能力に問題があるという事であり、法によって社会が営まれている現代社会においてそういう現象が起きているのは、実に由々しき事態と言わねばなりません。

 そんな中、今月の初めに、こんなニュースが流れました。

「係数」やっぱり誤字でした 司法試験、配点調整はせず(朝日新聞)

 先月8日に行われた司法試験の短答式試験(5肢択一問題のみからなる2次試験)で、「計数」「要式」と書いあれば何も迷わない選択肢に「係数」「様式」という漢字が用いられ、訂正の発表もなかった事から、引っ掛け問題なのか、単なる誤字なのかと、受験者の間で話題になったそうです。
 司法試験委員会は、今月1日に行った合格者発表の時になってやっと、これらを誤字だったと初めて認めたのですが、それを受けての措置は、「正解の選択には影響しない」として、配点上の配慮などは一切しないというものでした。曰く、「確定的係数という言葉が学問的に存在しないのは明白。これまでも言葉の引っかけ問題は出題していない」(司法試験委)、「ほかの選択肢は内容が誤っている上、文字の表記の誤りを問う問題ではない」(法務省=日本経済新聞より=)。

 司法試験といったって、隅から隅まで全部、専門用語だけで書かれている訳ではないでしょうし、専門用語に誤記がある試験問題であれば尚更、致命的な出題ミスと言えます。「表記の誤りを問う問題ではない」というのも出題基準として明示されてはいないはずですし、「これまでも言葉の引っかけ問題は出題していない」という言葉に至っては、単に過去について語っただけであって、何の言い訳にもなっていません。
 悪質業者の手口などを例に挙げるまでもなく、紛らわしい言葉の峻別というのは、現実に発生する法律問題への対処において極めて重要です。また、社会の変化が激しくなっている今日、目の前の事実より前例の方に根拠なく囚われてしまう様な頭の固い人間は、日々発生する深刻な問題を特権的立場から解決する人物として相応しくない事も、言うに及ばずです。そして前述の通り、法曹人には相応の国語力も要求されなければならないのに、それが蔑(ないがし)ろにされている実態…。
 1問当たり何十秒というペースで解答してかなければならない短答式試験にはただでさえ、司法への適性を試すというより、クイズ的な反射神経と受験テクニックのテストに近いとの批判があります。そんな短答式試験での専門用語に関わる誤字は、思慮深い優秀な受験者にほど精神的な負担を与え、惑わすものです。
 更に、その過ちに対して開き直り、合否判定に際し何ら具体的な対処をしなかった事は、意思疎通能力と思考力いう側面から見た国語力に優れた志願者を、司法への道から排除した事を意味します。司法試験委と法務省は二重の罪を犯したと断じなければなりません。同時に、日本の司法界が、国語というものの重要性に如何に無理解であるか、その一端を図らずも露呈した訳です。

 ついでに書いておくと、司法試験の問題は法務省職員が校正をしているものであり、しかも司法試験の誤字は昨年に続き2年連続なのだそうです(共同通信より)。ま、司法試験に関わる法務省職員も司法試験合格者でしょうから、試験が試験なら、選ばれる人間も人間という事ですね。

※過去の関連記事
(2004/6/20)ま、お手並み拝見…法律用語の平易化を検討へ

2005年01月10日

負けるな、災害孤児!

 昨年末に発生し、死者の総数が遂に15万人を突破してしまった、スマトラ島沖地震と津波。被災地では衛生状態の悪化ばかりでなく、混乱に便乗したテロや人身売買の闇商人の暗躍など、露骨に言ってしまえば この地方ならではとも言える深刻な事態が進行しているそうです。一方で、見るからに栄養不足気味の少年が何日間もの漂流の末に救助されるなど、人間の意外な逞(たくま)しさに驚かされるニュースも伝わってきます。

 日本人の犠牲者も既に30人以上が確認されてしまいましたが、その報道の中で非常に印象的だったのが、タイ南部の“隠れリゾート地”・ピピ島で、両親と弟の家族4人で旅行中に被害に巻き込まれた、愛知県岡崎市の少年の姿でした。
 異国の地で非常事態に遭遇し、家族全員とはぐれてしまったこの少年は、日本から応援に駆け付けた救助隊に対し、当時の状況をしっかりと説明してみせたそうです。その姿は日本のテレビでも流されましたが、取り乱した素振りや泣き顔を見せる事もなく、そんな深刻な事態にたった1人で直面させられている子供とは思えない冷静さで救助隊の大人たちと話す様子は、記憶に焼き付きました。そして救助隊が離れ、付き添いの親戚だけになった時に初めて、その親戚の大人にすがりつく様に号泣し始めた姿には、強く心を打たれずにはいられませんました。
 けれど翌日以降も、少年は気丈に振る舞い続けた様です。そして、父と弟は死亡が確認、母も行方不明(報道上の用語は「行方不明」ですが、ほぼ絶望と考えて間違いないでしょう)で、家族で助かったのは自分だけという最悪の結果を受けて帰国した彼の表情はさすがにひどく落ち込んでいましたが、それでも空港の到着ロビーを出るその足取りは、とてもしっかりしていました。

 これだけ心をしっかりと保つ事が出来るのだから、小柄な少年でも実はもう中3ぐらいにはなっているのだろうと、最初は思っていました。ところが報道で少年は12歳と知り、それなら中1かと思いきや、まだ小6だというのですから、本当に驚きました。
 小学生が恐ろしい目に遭って、全ての家族を失ってしまったら、きっと立ち直るまでに相当の時間がかかるだろうと思います。立ち直れない子供がいても不思議ではありません。今後は新たな苦労にも色々と直面していくでしょう。
 でも、あんなにしっかりとした立ち振る舞いが出来た彼ならば、きっと早いうちに立ち直って、力強く人生を歩んで行ってくれるだろうと思います。そう信じずにはいられません。

 日本人以外も含めれば、今回の災害で孤児になった子供は当然彼1人ではなく、相当数に上っています。発展途上国ばかりが広範囲に被災しただけに、現地の孤児達の中には、日本とは比較にならない程の苦労を味わう事になる子供も、沢山いるはずです。彼等は、これから他の子供にもまして、頑張って生きていかなければならないはずです。
 でも、ここでは、あえて「頑張れ」とは書きません。日本の少年も、東南・南アジアの子供達も、負けるな、津波災害の孤児達!

2004年12月28日

結局は役人の自作自演だった「痴呆」老人の呼称変更

 「痴呆」老人という表現は侮蔑的であり、他の言葉に言い換えるべきだとの主張に対して、厚生労働省は24日、この主張を容認して、今後は「認知症」と表現するという最終決定をしてしまいました。

「痴呆」の呼称「認知症」に、厚労省が決定(読売新聞)

 4月25日の当ブログでも書いた通り、私は、この様な発想は「痴呆」老人の現実に対する糊塗に他ならず、認める事は出来ないとの立場を取ってきただけに、厚労省の判断は遺憾の極みと言う他ありません。
 同省は来年1年間を「認知症を知る1年」と位置付けて社会の啓発を図るつもりだそうですが、こんな発想を追認する様な役人達が、「痴呆」老人に関する社会啓発が出来るに値する位に、「痴呆」老人とその周辺の真実をどこまで肌で知っているものか、甚だ疑問です。

 実は今回の言い換えは、国民からの意見募集を踏まえたものだという事になっています。
厚労省:「痴呆」を「認知症」に−−検討会、用語変更で合意(毎日新聞・11月20日)
 同省が意見募集をする事は、これよりかなり前の報道で知っていました。実を言うと“経験上”という側面もあって、言い換えに絶対反対である私としては、たとえ言い換えが既定路線であったとしても意見を言わないではいられず、同省のホームページを頻繁にチェックして、意見募集が始まるのをずっと待っていました。
 ところが、意見募集が始まったのかも全く分からないうちに、上のリンクで紹介した記事が新聞に掲載され、私は仰天してしまいました。因みに現在の同省のホームページを見ても、言い換えが決まった事や経緯がウェブサイト上で公開されているのかどうか、よくわかりません。
 僭越(せんえつ)ではありますが、絶対に意見を言ってやろうと思っている人間に、いつからどこでやっていたのか全く分からなかった様な意見募集が、国民からの意見募集と言えるのでしょうか。それに、「痴呆」という老人に最も関係の深い問題に関する意見募集なのに、老人には馴染みの薄いインターネットでのみ意見を募集したという姿勢も、余りに不誠実です。
 これで、「痴呆」の語に不快感を覚えるという意見が大きく上回ったと言われても、厚労省は初めから“組織票”が目当てだったのではないかと勘繰らずにいられません。

 また、「痴呆」という表現に不快感を覚える人が多数派だったとしても、そのうち「認知症」が言い換え語として適切だと考える人と、「痴呆」の表現に不快感を覚えない人の数を比較したらどちらが多かったのかという点も、不明確です。
 「認知症」と音の似た「認知障害」という医学用語が別の意味で既に存在するばかりでなく、例えば「失語症」が“失語してしまう症状”、「感染症」が“感染してしまう症状”である様に、「認知症」では“認知してしまう症状”という意味になり、国語上も誤った造語であるという批判も、早くも噴出しています。

 いずれにせよ、現実も道理も関係ない、一部の思い付きに乗っかった役人の自作自演による政策決定というのはしばしば見受けられますが、今回もその類だったという事です。

 ところで、厚労省の決定を受け、こんな告知をした新聞社があります。
おことわり:「痴呆」「痴呆症」の表記を「認知症」に(毎日新聞)
 毎日新聞は「痴呆」の言い換えに対し、非常に積極的な論調を貫いてきた新聞社ですが、その毎日新聞が「ぼけ」は今後も使うと言っています。
 「この、ぼけ!」と言えば他人を罵倒した言葉遣いになりますが、「この、痴呆!」では罵倒になりません。そう考えれば、むしろ「ぼけ」の方が侮蔑的なぐらいだと思うのですが…。私には理解不能な言語感覚です。

2004年12月09日

経済制裁を叫ぶ気持ちは分かるが…

 「横田めぐみさんの遺骨」は偽物である事が科学的に立証されたそうですが、この結果に今更本気で驚いている人など、ごく少数でしょう。北朝鮮から持ち帰ってきた外務省の代表団も、初めから本気になんてしていなかったはずです。
 さて、北朝鮮の度重なる不埒(ふらち)な態度に、日本では対北朝鮮経済制裁を求める声が一層高まりそうな気配です。しかし、その気持ちは分かるのですが、果たして経済制裁をやったところで、北朝鮮政府を懲らしめ、拉致被害者を奪還する効果が期待出来るのでしょうか…?

 言うまでもなく、北朝鮮と経済関係を持つ国は日本だけではありません。正確な貿易統計は知りませんが、少なくとも中国やロシアとは盛んに交易を行っているはずです。そして、これらの国には日本製品が大量に輸出されている訳ですから、そこから更に北朝鮮へ迂回輸出する事も恐らくは可能な訳で、日本が直接的な対北朝鮮輸出を止めたとしても、日本から北朝鮮への経済の流れが、立ち行かなくなる程に断ち切られるとは思えません。北朝鮮に転売しないという約束を取り付けた上で輸出したところで、空手形でしょう。
 そして、逆に北朝鮮の産品が日本へ流れ込む事を阻止するのも、難しいでしょう。何せ北朝鮮から日本への輸出品には、蟹や松茸の様に高価な品もあります。日本の業者がこぞって「我が同胞を取り戻すため、北朝鮮の経済的利益に繋がる商品の買い付けは一切行いません!」と宣言してくれればいいのですが、今の日本経済に、そんな道徳心を期待するだけ無駄でしょう。「不況だからねぇ」の一言の下、合法・違法、あらゆる手段を駆使して、同じく迂回貿易が行われる可能性は非常に高いと思います。
 そしてまた、北朝鮮産であるのを承知で、「安いから」とか言って買う馬鹿な国民も沢山出てきそうな予感…。2度目の小泉訪朝の直後に、「拉致被害者家族が日本に来られたのだから訪朝は成功だ」などと、能天気に評価する世論が実際に支配してしまった前例がありますから、この国には…。
 日本人側に、目先の自分の利益しか考えない姿勢があると見えてしまうと、それは日本の世論が固い一枚岩ではないという事を意味し、北朝鮮を利する結果になってしまいます。
 北朝鮮の貨客船・万景峰(マンギョンボン)92号の日本入港禁止には、北朝鮮を利する現状を阻止する効果があると思いますが、これとて、体制への打撃や拉致被害者の解放に繋がる程の制裁にはならないでしょう。

 共産党や社民党の言う様な無責任な経済制裁反対論には同調出来ませんが、勢いに任せる様にして経済制裁に踏み切るより、もっと実効性の期待出来る作戦は練れないものだろうかと考えてしまいます。

2004年11月27日

そんな事までテレビのせい?…血液型番組批判に思う

血液型番組:「性格決めつけ」視聴者から抗議相次ぐ(毎日新聞)

 私、初対面の人10人中9人…と言いたいところですが、実際問題として9人以上から、血液型はA型だと決め付けられる人間です。けれど本当は、O型なんです。
 それで不愉快な思いをした事は、1度だけありました。高校で、同じクラスの相当数の人間からO型である事を信じてもらえず、しまいには、そのうちの1人から、多数の面前で「お前は絶対にA型だ。高校生にもなって自分の血液型も知らないのか。馬鹿じゃないのか」と面罵されました(実際はもっと汚い、この地方の方言です。※あくまでも、この地方の方言の話であり、日本の方言全てを汚いと言うつもりなど毛頭ないので念のため)。
 まぁ、血液型を口実にした“いじめ”といえば、そう言えるでしょう。ただ、以前にも別の話題で書いた通り、私が育った某地方都市っていうのは、人口ばかり多い割に、どうしようもないほど民度が低いんですね(しかもこの高校って、これでも、その地域では屈指の名門とされているんですぜ…)。幾ら未成年者でも、血液型と性格の関連性が100%だなどと思う方が馬鹿なのであって、血液型による性格判断に科学的根拠がなかったとしても、自分は俗説のせいで不快な思いをさせられたのだなどとは全く思っていません。“例外”の存在を考える余裕のない頭の悪さの方が問題なのです。

 今回、問題になっているというテレビ番組を私は1つも見ていないので、明らかに特定の血液型の人の人権を否定している内容だった可能性が全くないとまでは、私には言えません。でも、その可能性は皆無に近い様な気がします。4種類しかないABO式血液型では“ごく少数派”は存在しないので、特定の血液型の人の人格に全く思いが至らないまま番組が出来上がってしまう可能性は考えにくいですから。
 例えば健常者に対する障害者という位の少数派が、テレビ番組のせいで“いじめ”を受けたというのなら、その原因になった番組の内容を精査する必要があるかもしれません。しかし、血液型テレビ番組で特定の血液型の子がいじめられたと言われると、それはむしろ、周囲の大人の教育方法が悪いのではないかと思いたくなってしまいます。
 何だか「8時だョ!全員集合」が、子供達の間に汚い言葉遣いや暴力を蔓延させていると教育関係者から吊るし上げられていた事を思い出してしまいます。今では、「全員集合」を見て同じ事をする子供がいたら、それは「全員集合」が悪いのではなく、その子の親や教師の躾の仕方が悪いのだと考える方が普通ではないでしょうか。

 臨床的な学問を研究している人の中には、学術上の理論より、一般人の日常感覚の方が実態に近い場合もあり得ると考える人もいます。
 学術上の結論の方が正しいとしか思えないのに、世間の感覚にずれがあるとどうしても感じるのなら、何故、世間がずれた事を信じ続けているのかというところまで探ってこそ学者でしょう。
 冒頭の記事中に紹介されている、某国立大学教員が開設している「『血液型』番組における差別と偏見について情報を求む」なるサイトを覗いてみましたが、情報提供者への注意事項の中に「いわゆる『差別語』の使用は、このサイトを発信源とする二次的な差別をもたらすおそれがありますのでお控えください」なんて書いてありました。しかし、情報提供は電子メールで行う様に求めていて、提供者の投稿がそのまま即時に公開される仕組みにはなっていないのです。
 案の定と言うべきか、「差別と偏見」をテーマに扱いながら、特定の言葉を使っているかどうかという様な形式論でしか「差別」を語れず、自分で集めた情報を自分で管理する事もできない、浅はかな学者みたいです。

 でも、こういう動きが報道され、やがてそれが独り歩きすると、うっかりすると、血液型と性格を結び付けて語る事自体が差別だと糾弾され、しまいには性格判断とは関係ない、血液型別に運勢を占う企画まで自主規制されてしまいかねないんですよね。まぁ、なくても生活に困る情報ではないですが、生活がつまらなくはなりますわな…。
 もっとも、今ではウェブの発達のお陰で、訳の分からない理由で商業マスコミが自粛したり、特定勢力の圧力で自粛させられたりしても、庶民レベルでの情報発信は続けられる世の中になり、庶民の物事を判断する目も鋭くなってきていると思われます。
 今回の血液型の問題は、社会的に深刻な差別問題ほど重い課題ではないだけに、発想自体を完全に放逐してしまうのではなく、もしメディアに行き過ぎがあれば是正し、“毒”を残しつつ、平衡感覚のある成熟した楽しさに持って行けるかどうか、動向をやや気楽に見守りたいと思います。
 因みに、ここは日本なのですから、「血液型と性格を結び付けて考えるのは日本人だけ」なんていう事実は、どうでもいいです(笑)。

2004年11月21日

「ゆうパック」は「変わる」必要があったか?

 コンビニ業界2位のローソンが18日から「ゆうパック」こと郵便小包の取り次ぎを開始し、入れ替わりにヤマト運輸は「宅急便」をローソンから引き揚げました。ローソンは両者の並行取り扱いを望んでいるものの、ヤマトは、郵政公社が国営企業としての特権を乱用して民業を圧迫していると激しく反発し、法廷闘争に持ち込んでいます。
 ヤマトと郵政当局の対立は前々からのものですが、今回の事態の直接のきっかけとなったのは、先月1日に行われた、郵便小包始まって以来とも言われる大規模な「ゆうパック」の商品性変更でした。織田裕二がテレビCMで小包を持って走り回っている、あれです。
 この変更が発表されたのは、実施の僅か2日前である9月29日。余りに突然の話に驚いた利用者も多かったのではないでしょうか。

 この変更により、それまでは大きさにかかわらず重さで決まっていた「ゆうパック」の料金体系が、逆に重さにかかわらず大きさで決まる様に改められました。また、配達日指定をした場合の加算料金を廃止し、新たに集荷(郵便局や取扱店に直接持ち込むのではなく、取りに来てもらう事)の場合の料金を割高にしました。更に「ゴルフゆうパック」「空港ゆうパック」などといった特殊な荷物の取り扱いも始めました。
 …って、これって全部、「宅急便」を中心とする民間宅配便の後追いと言うか、「ゆうパック」が民間宅配便と違っていた部分をやめて、民間の猿真似をしただけなんですよね…。わざわざ民間と殆ど同じ制度に作り変えて、それで料金は民間よりかなり安いのですから、幾ら消費者の利益になるといっても、「民業圧迫」という反発はあながち外れていない感じがします。
 「ゆうパック」の方が不利な仕組みといえば、着払手数料の制度(民間宅配便では発払いでも着払いでも料金は変わらないが、「ゆうパック」は着払の場合は20円高くなる)が残ったぐらいのものでしょうか。

 しかし、実はこの「ゆうパック・リニューアル」で、大幅な値上げになってしまった場合もあるのです。
 私は仕事で、書類の遣り取りを頻繁に行います。A3版という、新聞の1ページの半分ぐらいの大きさの紙が、何十枚か束なった物を送る事もよくあります。そして、送り先はほぼ全てが東京都区内(発送元も東京都区内)です。
 A3版の紙が数十枚の束を、大きさに余裕のある丈夫な封筒に入れて、“持ち込み”で東京都区内相互で送る場合、1kgもない平べったい封筒なのに、「宅急便」では最も料金の安い「60サイズ」(縦・横・高さの合計が60cmまでで、かつ重さが2kgまでの荷物に適用)の640円では送れません。封筒の縦横の長さの合計が74cmになってしまうため、その1つ上の「80サイズ」(80cmまでで、かつ5kgまで)の850円になってしまいます。5kgの荷物と同じ料金を取られるのです。
 しかも、この料金は関東から関東宛ての場合の全てに適用されるので、東京都区内相互でも、群馬の山奥から房総半島の突端まででも、同額なのです。
 一方、旧制度の「ゆうパック」なら、大きさに関係なく2kgまで510円。「宅急便」より340円も安かったのです。この料金は「同一市内」という「ゆうパック」特有の地域区分によるもので、“群馬の山奥から房総半島の突端まで”だと、一段階高い610円になります。この距離別の料金区分は、都道府県単位できめ細かく設定されていました。

 物を運んでもらうのに、重さよりも些細な大きさの差と大雑把な地域区分で料金を決めてしまう「宅急便」などの民間宅配便と、重さと細かな距離設定で料金を決めていた「ゆうパック」。私には後者の方が合理的な制度に思えるし、実際に後者の方が安くついたので、どちらかと言えば「宅急便」より「ゆうパック」を多用していました。
 ところが郵政公社は、この個性的な料金制度を放棄してしまいました(正確には大口向けの特別料金として残っているのですが、ごく一部の企業等以外には無関係)。それでも(批判されている様に)民間より割安である事には違いないのですが、重さを無視して大きさで料金を決める様になった結果、前述の例の場合だと700円になり、190円の値上げになってしまったのです。

 郵政公社では、従来は集荷の際に秤(はかり)を持って行く必要があったが、今後は巻き尺1個で済むので集荷先で客を待たせる事がなくなるとか、より普及している民間宅配便の制度に合わせる事で利用者に分かり易く、コンビニなどにも扱い易くなるなどと、制度変更の意義をアピールしている様ですが、ちょっと腑に落ちない説明です。
 それより、独自性をわざわざ自ら抹殺し、余所と同じ事をして売り上げを伸ばそうという“右に倣え”の発想を、それも民営化が検討されている巨大国営企業が持ち出した事には、思わず遣る瀬なさを覚えてしまいます。純粋民間企業には真似の出来ない、郵政ならではの「ゆうパック」として独自の営業戦略を採ろうという発想は、なかったのでしょうか。

2004年11月02日

下らん

 要するに、過去の性向に問題のある、他人を化かしてばかりの“狸”が新規参入して来ないために差し向けられた刺客が、名門銀行出身が故に、若手でありながら長老に媚(こ)びを売ってなんぼという処世術を身に付けた「虎の威を借る“狐”」で、マスコミの独裁者や経済犯罪の疑惑が浮上している元オーナーらから吐き出された空気がまだ充満した世界にいる連中が、前から仲の良かった“虎”にへつらう“狐”の方を予定通り仲間として迎え入れ、“狐”は我こそ認められた存在という顔を世間にしてみせる事が出来るとばかりにいい気になっている…といったところでしょう。
 “狸”は“狸”で、“狐”が最初にしゃしゃり出て来た時に「一言声をかけてくれたっていいじゃないですか〜」と、報道陣の前で被害者面。お前にそれを言う資格があるのか?

 やっぱ、パ・リーグの終わりの始まりか?

2004年10月26日

新幹線、「安全神話」は所詮“神話”でしかない

 ボランティア、時間はあるけど、金がない。
 金がある時は、時間がない。

 別に、言葉遊びで言ってるんじゃなくて…。皮肉なものです。

 新潟県中越地震の震源地付近では、今も大小の余震が続き、被災者の置かれている状況は時間を追って厳しさを増している様です。この場で改めて、御見舞いを申し上げます。
 この地震では、長岡駅に到着直前だった下りの上越新幹線が、営業運転中の新幹線列車としては初めて脱線事故を起こし、海外からも大きな注目を集めています。時速約200kmで走行中にいきなり大地震に襲われたこの列車は、レールを路盤から引き剥がしたりしながら約1.6kmも走行し、最後尾の車輛が大きく傾いた状態で止まりました。
 近年は鉄道の安全技術が大きく向上して、少々大きな事故が起きても、滅多な事では乗客には危害が及ばない様になりました。それでも今回の脱線で死傷者が出なかったのは、現場がほぼ直線だった上、先頭車輛が大きく脱線して何かに引っ掛かったり、反対方向の電車と擦れ違ったりもしなかったという好条件が重なったからであり、もし条件が悪ければ大惨事になりかねなかったと見る向きが多い様です。
 そして、それを以って「新幹線の“安全神話”は崩れた」と解釈する人(…というか、マスコミ)も少なくないみたいなのですが…。
 そもそも、新幹線に神話的な「安全」なんて、元々あったのでしょうか。

 確かに、新幹線は鉄道としては世界屈指の高速運転を行いながら、同時に世界屈指の定時性、快適性、そして安全性を実現してきました。
 けれど、新幹線も、所詮は列車です。長大な車体が地べたを這いずり回って移動しているという点では、新幹線も、技術力の低い国で車体をがたつかせながら走っている汽車も、変わりありません。
 そして、どんなに高度な技術で列車を走らせたところで、新幹線が走っている場所は所詮、日本です。環太平洋造山帯の一部そのものであり、国中に活断層が走り、今日どこで大地震が起ころうが、明日どこで大噴火が起ころうが、全く不思議のない国です。
 そういう厳しい条件の国土に暮らす国民だったからこそ、我々の先達は必死に研究し、技術を磨いて、新幹線をはじめとする素晴らしい物を沢山開発してきたのですが、人間が地球の大きな営みにどんなに戦いを挑んだところで、言うまでもなく現状では限界があります。

 今回の地震では、揺れが実際に来る前に地震を察知して電車を強制的に止めるという、新幹線自慢のシステムは正常に作動したのですが、事故防止には全く無力でした。この事も「安全神話」の崩壊という見方に拍車をかけているみたいですが、このシステムは、地震の揺れが遠くまで届くのには時間がかかるという性質を利用して、震源からそれなりに離れた所を走る列車を危険から守る仕組みであり、地震そのものの発生を予知するシステムではありません(そんなシステムは、今の技術では作れません)。ですから、今回の様に震源が線路のほぼ真下の浅い所で、地震発生と同時に激しい揺れに襲われた時には役に立たないし、その対策は現状では立て様がないのは、初めから分かっていた事です。
 極端な話、新幹線の線路の直下で断層の巨大なずれが生じ、その歪みでどこかで線路が破壊されて、その瞬間に高速運転中の新幹線が走ってきたら、どうにもなりません。それは、ここが日本である以上、避けられない宿命です。

 今回の事故をきっかけに、直下で地震が起き、悪い条件が重なっても、被害を最小限に食い止めるための研究が、必ず始まるはずです。人工的な実験では得られない、実際の災害が起きて初めて分かった現象や得られたデータも沢山あったはずですし、何より、実際に鉄道事故防止の研究開発に携わる人達は、安全は“作る”ものであって、「安全神話」なんて端(はな)から存在しない事を、ちゃんと自覚しているはずですから。
 それは技術者のみならず、特に自然災害の起こりやすい日本に暮らす一人一人が肝に銘じ、心掛け、ある意味では覚悟しておかなければならない事であるはずなのです。
 (そうやって考えると、マスコミって、やっぱり馬鹿?)

2004年10月21日

石原知事発言報道に見る、毎日新聞記者の人権感覚

「バカでもチョンでも…」理事長予定者が発言 首都大応援団設立総会で(毎日新聞)(JPEG画像)

 昨日の毎日新聞朝刊の東京地域面に出ていた記事です。この記事はネット上で公開されておらず、また、今回は紙面そのものを見て頂きたい事もあり、上のリンクをクリックすると、紙面の画像が表示される様にしました。
 見出しにある「首都大」とは、現在の東京都立大など都立の4大学・短大を統合して来春から発足する「首都大学東京」の事です。その「首都大」の「応援団」というと、スポーツの大会で応援を指揮するあの「応援団」を連想してしまいますが、この記事に出てくるのはその「応援団」ではなくて、首都大の学術活動を側面支援する会員制組織の事です。
 見出しの付け方が下手ですね。でも、この見出しには、もっと大きな問題があると、私は思うのです。

 「馬鹿でもちょんでも」「バカチョンカメラ」などの「ちょん」は、朝鮮人に対する蔑称を語源とする「差別用語」であるから使ってはならないという“解説”は、一部の企業の研修や、西日本で特に盛んな「同和教育」(小中高校における、部落差別問題を中心とした人権啓発教育)などで、今も頻(しき)りに行われている様です。
 しかし、この見解に対しては「『ちょん』という語は、朝鮮人蔑視の風潮が広く一般化するより前の時代から存在していた」「『ちょん』は『端』『末端』の意味から『馬鹿』の意味に転じた語であり、朝鮮人差別とは無関係」など、様々な疑いの目が向けられています。
 この点については、当ブログのリンク集でも紹介しているサイト「“差別用語”と呼ばないで」をはじめ、多くの場で検証されているので、詳細はそちらに譲りますが、少なくとも、朝鮮人の蔑称が我が国に存在した事実はあっても、それが馬鹿を意味する「ちょん」の語源である事を示す証拠や、それを客観的に立証した例は、今のところ何一つない様です。
 私が過去に調べた限りでの印象を述べるなら、やはり、馬鹿を意味する「ちょん」の由来を朝鮮人差別に求める発想は、限りなく濡れ衣に近いと感じています。紹介した毎日の記事も、「差別的表現とのとらえ方あり、今後、批判が出る可能性ある」と、かなり持って回った言い方をしています。

 …で、実は今回の本題は、ここからなんです。
 記事の後半では、この会で石原・東京都知事が祝辞の中で「一部のバカ野郎が反対して金が出なくなった」と発言をした事が紹介されています。
 ここで言う「金」とは、先駆的な大学研究に対して、審査の上で文部科学省が予算を重点配分する「21世紀COEプログラム」による補助金の事です(「COE」は"Center of Excellence"の略)。都立大にも審査を通過して補助金を得ていた研究があったのですが、都立大の教員の一部には、都知事による首都大への移行の手法への激しい反発があり、該当する研究を行っている教員が少なからず、首都大に改組される前に大学を去ってしまう可能性が出てきました。このため、都立大は先週、文科省に来年度の以降の補助金の返上を伝えていたのです。
 首都大設置構想の張本人である石原知事と、それに反発する一部の都立大教員と、どちらの主張が常識に適(かな)っているのかは、私にはよく分かりません。
 しかし、COEの対象になっている研究をしている都立大の教員で、首都大設置に反対している人といえば、恐らく多少の予備知識さえあれば、個人を特定出来るはずです。そういう話の流れの中で、知事という公職者が、知事の立場で、学問を支援する場で、多数の面前で、個人を特定し得る人達を指して「バカ野郎」と呼んだというのは、場の性質から考えて余りに非文化的・非論理的であるばかりでなく、他人を公然と侮辱した、平たく言えば他人の人権を侵害したという解釈も、十分に可能です。

 ところが冒頭に紹介した毎日の記事では、本当に問題発言なのかどうかすらあやふやな事(しかも、記者はそのあやふやさを認識していると思われる)は3段抜きの大見出しで示しながら、反対者を“はっきりと”罵倒した知事発言は、見出しでは一言も触れられず、記事本文でも“ついで”扱いです。
 扱うべき順番、とり上げ方の軽重が、あべこべではないですか?
 少しうがった考え方をすれば、毎日新聞とうきょう支局は、記事を書いた記者も、見出しを作った整理記者も、それらを最終確認するデスクも、人権や差別の問題を表面的な言葉の上の観念論としてしか捉えていない人達の集まりなのかもしれません。きちんと考える頭があれば、問題になる可能性あるだけの問題と、特定人物を公の場で馬鹿野郎呼ばわりした問題と、どちらがより深刻かは自明なはずです。

※2004-10-21 16:00、一部修正しました。

2004年10月16日

米国に「科学的根拠」を語る資格はない。何故なら…

 狂牛病(BSE)の発生を受けて、昨年の暮れから停止されている米国産牛肉の輸入を再開するかどうかの日米間協議が、いよいよ大事な局面を迎えるそうです。
 聞くところによると、あくまでも食肉処理された牛の完全な全頭検査の実施を主張する日本と、現在の技術では生後30か月未満の牛に全頭検査を行っても無意味であり、日本の主張は科学的根拠を欠くと主張する米国側が鋭く対立し、さきの日米首脳会談ではブッシュ大統領が小泉首相に、今この場で米国産牛肉の輸入再開を政治決断せよと迫る場面もあったそうです(さすが、内政干渉がお家芸の国だけある…(毒))。
 そして、これまでに発見された最も若い狂牛病の牛が生後21か月であった事から、日本としては20か月以上の牛だけを全頭検査する事で妥協し、米国も渋々ながら、この条件を取り敢えず受け入れそうな気配らしいのですが…。

 はっきり言います。この問題で、日本は米国に妥協する必要は全くありません。米国の言う通り、日本の主張は科学的根拠は欠いています。それでも日本は、科学的根拠がない事を理由に怯(ひる)む必要は全くありません…相手が米国であるならば。
 だってそうでしょう。科学的根拠を全く欠いた単なる感情論で、日本に捕鯨禁止を押し付けている、その先頭に立っている国は、どこですか?
 科学的根拠のない牛肉の貿易制限は、米国経済には痛手でしょう。しかし、科学的根拠のない捕鯨廃止論は、経済への悪影響などころか、古くから鯨を利用してきた民族(日本民族だけではありません)の文化に対する破壊行為に他なりません。
 だから、今後もし仮に、米国と並んで反捕鯨の最強硬派である豪州でも狂牛病が発生した場合には、やはり豪州が完全な全頭検査を行うと約束しない限り、豪州産牛肉は一切れたりとも輸入べきではありません。

 安い牛丼を食べたいだけのために、国を売る様な事をしてはなりません。

【参考リンク】
「鯨ポータル・サイト」(水産庁などによる、捕鯨文化を守る世論を喚起するためのサイトです。)

(2004-10-17 00:23)

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